危機意識の欠如


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現代日本社会の課題の一つは、危機意識がないことである。

 

その原因として考えられることは、国民の多くが危機に直面しているという事実を知らない からではなく、 知識としては知っていてもそれを我がこととして認識することなく他人事と捉えているからではないか。では、どうしてこのようなことが起こるのだろうか?それは、国民の多くが社会を背負うという意識を持っていないからではないか。 この意識がなければ、 たとえ知識として知っても、それは他人ごとでしかなく、自分には関係ないとなれば馬耳東風、いくら危機だと警鐘を鳴らし知識を与えたとしても何の効果も得られまいこのような場合は、どうしたら良いのであろうか。

註:「社会を背負う人と社会にぶら下がる人」という考えは、網さんの「内包的自分と外包的自分」と同じ意味である。

 

歴史を振り返ると、黒船が来航した時代は、欧米の圧倒的な力によりアジアの諸国は植民地化され、日本も植民地化される危機の時代であった。このとき、識者は国民に対して どうアピールしたのだろうか?

 

 福沢諭吉著『学問のすゝめ』を参考に考える。

 

 

福沢は、国民に対して欧米に植民地化される危機を訴えるのではなく、多くの国民が士農工商身分制度で苦しめられた事実に着目し、学問をすれば誰でも金持ちになり、偉くなれる、と学問を勧め身分制度による理不尽からの解放を訴える道を選んだ。

 

 

ここでもし、我が国が植民地化されるという危機を訴え、たとえそれが理解されたとしても、ではどうしたらよいかその方策を多くの国民が持たなければ迷うばかりで解決にはならない。 ところが士農工商から解放されたいという願望(欲求)に対し、誰でも学問をすれば身分に関係なく願いは叶えられるという方向性を示したこと(動機付け)により、多くの国民は希望を見出し、奮起し日本の近代化の力になったのである。見方を変えると、他人事として受け取られがちな国の危機を訴えるのではなく、士農工商から解放されるという自分事のメリットを強調することにより多くの賛同者を得た。そこが彼の偉大と言うか恐ろしいところである。

 

このことを、 アブラハム・マズローの欲求5段階説と対比する。

 

アブラハム・マズローは欲求を5段階に分け、低位の欲求が満たされるに従って高位の欲求が現れるとした。 下図参照

 

学問をすれば金持ちになり、偉くなれると、と言うのは、低位の欲求(生理的欲求、安全・安心欲求、社会的参加欲求、自我・自尊)までしか満たし難い。

 

 

では、学問のすゝめは高位の欲求(自己実現)を満たすところまでは目指さないのであろうか。この点について、福沢は「物質的独立・精神的独立(p.194)」の重要性を指摘しこれに応えている。

即ち、家業に励んで財産を持ち 他人の世話に ならない 物質的独立を果たさなければならないp194が、逆にその財産に支配されて独立の精神を失ってはいけないp197と精神的独立の重要を説く。

 

そのためには 、心事が高尚でなければならないp 200。世間的な栄誉は求めないことは賞揚すべきp209(分相応の栄誉・人望を求めることは大事p210)。

 

ところが、心事が高尚 でも行動が伴わない人は 不平不満が 多く人に嫌われ孤立するpp202-204。行動を起こすことは重要であり、それは決して安易なことではない。なぜなら、心に思う分には制限が無く自由であるが、実践するには制限が伴なうpp198-199 )からである。

 

では、どうしたら良いか。一身に備わった働きを、自分のためにも社会のためにも十分発揮するには、3つの条件がある(福澤、pp212-219)。

 

1. プレゼンテーション力

自分の考えを的確に表現する

2. 相手に良い印象を与える表情・容貌

広く交際して他者を知り、自分を知ってもらう。

 

3.旧友を忘れず、新しい友を求める

新しいことに取組むには、旧友ばかりではなく新しい友から学び自分の盲点に気づかさせてもらうことは有効である(ジョハリの窓の「盲点の窓」)。

 

 

以上述べた精神的独立がマズロー自己実現に相当するとすれば、福沢は5つの欲求すべてにつき欲求満足のための動機づけを示したことになる、と考える。

 

 

士農工商身分制度が崩壊した今、令和の国民の欲求とは何か、そしてそれはいかにすれば満足させることが出来るのであろうか???

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